●今朝・あれこれ(5月23日)
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昨日は、ワイフの姉夫婦と、山荘で
過ごした。
今ごろの季節は、最高! 本当に
すばらしい!
ちょうど梅の収穫期で、私も含めて、
合計で20キロ近く収穫した。
楽しかった。ワイフは、さっそく、
今朝から梅干しづくりにとりかか
っている。
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●ビスタの新機能
ビスタには、自分で自分の脳みそ(CPU)の能力を測定する機能がついている。「パフォーマンスの情報とツール」というのが、それ。その機能を使うと、コンピュータの性能が点数化して表示される。
ちなみに私のパソコンの性能は、
プロセッサ ……5・3
メモリー ……5・5
グラフィックス ……5・9
ゲーム用グラフィックス……5・5
ハードディスク ……5.5、となっている。
4・0〜以上あれば、ビスタは快適に動作するそうだ。
この中でとくに私の興味をひいたのは、プロセッサの(5・3)という数字。コンピュータは、自分で自分の能力を測定してということになる。しかしどうしてこんなことができるのだろう?
たとえて言うなら、子どもが、自分でテスト問題を作って、自分でテストするようなもの。コンピュータは、自分の作ったテスト問題で、自分の能力を、(5・3)と判定していることになる。
『賢い人からは、愚かな人がよくわかるが、愚かな人からは、賢い人がわからない』。これは私が考えた格言だが、もう一言、つけ足すと、こうなる。『愚かな人は、自分が愚かということさえわからない』。
だからたとえば(4)の能力しかないプロセッサが、どうして自分が(4)と判定できるのかということになる。(3)なら(3)でもよい。何か、私の知らないしかけがどこかにあるのだろう。
それにしても、今度のビスタは、おもしろいことをしてくれる。
●梅取り
山の中の生活は、こと「緑」に関しては、ダイナミック。そのことは、以前、自分で木の苗を植えてみて、気がついた。
そのとき私は緑花木センターというところで、10数本の苗木を買ってきた。梅の木も、その中にあったと思う。結構、大きく育った苗木である。が、山で植えてみると、それがどれも雑草のように小さく見えた。
これには驚いた。「緑」の基準そのものが、ちがった。
反対に、山の中ではふつうの木でも、そうでないということは、よくある。ここに書いた梅の木もそうである。小さな木だと思って、収穫してみたら、20キロ近くもあった。あるいはもっとあったかもしれない。
小梅と中梅の2本だったが、その小梅にしても、中梅程度の大きさがある。兄夫婦は、「日当たりがいいから、こんなに大きくなったんだ」と笑っていたが、そうかもしれない。そうでないかもしれない。
その小梅にしても、家にもって帰ってみると、どれも、大梅のような大きさに見える。これにも驚いた。
山の中では、「緑」は、小さく見えても、大きい。「緑」の基準、そのものが、ちがう。
●八百長相撲
「……?」と思ってながめているのが、相撲の八百長問題。昔から、相撲の世界では、こうした八百長疑惑は、そのつど現れては消える。つまり、こうした疑惑は、絶えることがない。
大前提として頭に入れておかねばならないことは、相撲は、スポーツではないということ。もっとわかりやすく言えば、金儲けのための「興行」。「国技」という言葉は、彼らが、自分たちのための金儲けをごまかすために使う、口実にすぎない。
相撲協会にしても、文科省認可の財団法人であるにもかかわらず、どうして1億円単位の現金が、その間で、乱舞するのか。八百長問題にしても、以前から、弟子が数百万円単位の現金をもって、相手方の部屋へ、それを届けるというような話は、よく聞いた。もちろん相手に、わざと負けてもらうために、である。
ところで「八百長」というのは、昔、八百屋の長兵衛という人が、碁の勝負で、弱い相手にわざと負けていたことから、そう言うようになったという(日本語大辞典)。私が相撲を嫌いになったのは、こうした八百長疑惑が、そのつど現れては消えたからにほかならない。
どこか、うさん臭い。うさん臭いというよりは、「うす汚い」? 金儲けを目的とした興行なら興行でもよい。だったら、野球やサッカーのように、もっとわかりやすい世界にすべきではないのか。
私は、ますます相撲が嫌いになった。
……ということで、相撲ファンの方には、たいへん失礼なことを書いたかもしれない。しかし今、子どもの世界でも、「相撲が好き」と答える子どもは、ほとんどいない。ゼロに近いのではないか。少なくとも、私は聞いたことがない。
●いらぬお節介
おととい、「いらぬお節介」というタイトルで、エッセーを書いた。BLOG上で、それを発表した。それなりの反響があった。
私も、日常生活の中で、こうした(いらぬお節介)を、よく経験する。最近では、私の母の介護について、あれこれ意見を言ってくる人がいる。しかし介護の問題だけは、介護をしたものでなければ、わからない。
それに介護老人といっても、まさに千差万別。一人とて、同じような例はない。それが介護である。
さらに加えて、それぞれの家庭には、それぞれの事情というものがある。その事情は、他人はもちろんのこと、親類であっても、わからない。いや、その親類にしても、一方的な話だけを聞いて、それで自分の意見を組み立ててしまう。
その上での、(いらぬお節介)である。中には、薄っぺらい(孝行論)を前面に押し立てて、あれこれ言ってくる人がいる。このタイプの人は、よく、『〜〜ベキ』を口にする。
「長男だから、家を継ぐベキ」
「男だから、金を出すベキ」
「本家だから、墓を守るベキ」
「産んでもらったのだから、親のめんどうをみるベキ」と。
しかしこういう言葉が、いかにその人を苦しめるか、言う人は、それがわかっていない。ばあいによっては、その人の心に、深いキズを残す。
では、そういうときは、どうするか?
私のばあい、相手にしないという方法で、対処している。はっきり言えば、無視。どうせその程度の人たちである。その多くは、江戸時代の封建意識そのものを、踏襲している。親絶対教の信者、もしくは極度のマザコンタイプ。もともと理性や道理の理解できる人たちではない。
……というのは言いすぎということは、自分でもわかっている。が、これだけは、私は、いつも肝に銘じている。
どんなばあいも、他人の家の事情については、(いらぬお節介)をしない。繰り返すが、それぞれの家庭には、それぞれの、言うに言われない、深い事情というものがある。安易な推察だけで、自分の意見を組み立てて、相手にものを言うのは、失敬というもの。
昔から、こう言う。『口を出すくらいなら、金を出せ』と。少なくとも、お金(マネー)も出さないで、口だけ出すのは、やめたほうがよい。口を出すことくらいなら、だれにだってできる。
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