世にも不思議な留学記
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世にも不思議な留学記
●私の留学時代の思い出をまとめてみました。
●この『世にも不思議な留学記』は、中日新聞に、8回にわたって連載されたあと、 
金沢学生新聞に、32回にわたって連載されました。

マダム・ガンジー(ハウスの玄関前で、1969)
右はオーストラリア首相

隣人は西ジャワの王子だった【1】

●世話人は正田英三郎氏だった

 私は幸運にも、オ−ストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究
生活を送ることができた。

 世話人になってくださったのが正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。

 おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。私の寝泊りした、インターナショナル・ハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。西ジャワの王子やモ−リシャスの皇太子。ナイジェリアの王族の息子に、マレ−シアの大蔵大臣の息子など。ベネズエラの石油王の息子もいた。

 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。「インドネシア語か、それとも家族の文字か」と。

 「家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあった。
また「マレ−シアのお札には、ぜんぶうちのおやじのサインがある」と聞かされたときにも、驚
いた。一人名前は出せないが、香港マフィアの親分の息子もいた。「ピンキーとキラーズ」(当
時の人気歌手)が香港で公演したときの写真を見せ、「横に立っているのが兄だ」と笑った。

 今度は私の番。「おまえのおやじは、何をしているか」と聞かれた。そこで「自転車屋だ」とい
うと、「日本で一番大きい自転車屋か」と。私が「いや、田舎の自転車屋だ」というと、「ビルは
何階建てか」「車は、何台もっているか」「従業員の数は何人か」と。

●マダム・ガンジーもやってきた

 そんなわけで世界各国から要人が来ると、必ず私たちのハウスへやってきては、夕食を共
にし、スピ−チをして帰った。よど号ハイジャック事件で、北朝鮮に渡った山村政務次官が、井口領事に連れられてやってきたこともある。

 山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンに来ていた。その前年にはマダム・ガ
ンジ−も来たし、『サ−』の称号をもつ人物も、毎週のようにやってきた。インドネシアの海軍が来たときには、上級将校たちがバスを連ねて、西ジャワの王子のところへ、あいさつに来た。そのときは私は彼と並んで、最敬礼する兵隊の前を歩かされた。

 また韓国の金外務大臣が来たときには、「大臣が不愉快に思うといけないから」という理由
で、私は席をはずすように言われた。当時は、まだそういう時代だった。変わった人物では、トロイ・ドナヒュ−という映画スタ−も来て、一週間ほど寝食をともにしていったこともある。『ル−ト66』という映画に出ていたが、今では知っている人も少ない。

 そうそう、こんなこともあった。たまたまミス・ユニバースの一行が、開催国のアルゼンチンからの帰り道、私たちのハウスへやってきた。そしてダンスパ−ティをしたのだが、ある国の王子が日本代表の、ジュンコという女性に、一目惚れしてしまった。で、彼のためにラブレタ−を書いてやったのだが、そのお礼にと、彼が彼の国のミス代表を、私にくれた。

 「くれた」という言い方もへんだが、そういうような、やり方だった。その国では、彼にさからう
人間など、誰もいない。さからえない。おかげで私は、オ−ストラリアへ着いてからすぐに、す
ばらしい女性とデートすることができた。そんなことはどうでもよいが、そのときのジュンコとい
う女性は、後に大橋巨泉というタレントと結婚したと聞いている。

 ……こんな話を今、しても、誰も「ホラ」だと思うらしい。私もそう思われるのがいやで、めったにこの話はしない。が、私の世にも不思議な留学時代は、こうして始まった。一九七〇年の
春。そのころ日本の大阪では、万博が始まろうとしていた。

★つづきは、本文で

本文を読む……

【オーストラリア】

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2007年3月22日(木)、
私は、オーストラリアへと旅立った。

友人のお譲さんの結婚式に
出席するためである。

その友人と会うのは、15年ぶりかな?
よくわからないが……。

+++++++++++++++++


(オーストラリア国歌)

●オーストラリアへ

 静かな朝だった。薄いモヤのかかった山々を、ぼんやりとした光が照らしていた。行く筋にも延びる、低い雲。ひんやりとした冷気。3月22日。木曜日。私はこれから、オーストラリアのメルボルンへと向かう。

 ワイフと東名西インターで別れ、そのまま中部国際空港行きの高速バスに。窓の外の景色を見ながら、考えるのは、37年前のこと。しかし頭の中は、まだ眠ったまま。ぼんやりとした景色が、気ぜわしく、目の前を流れていく。

●記憶

 記憶というのは、タマネギのようなもの。中心に若いころの記憶が残っていて、そのあと、皮を重ねるように、記憶が重なっていく。新しい記憶ほど、外側を包む。

 が、歳をとると、今度は反対に、外側から記憶から、皮がはがれるように消えていく。あるいはバケツの底にあいた穴のようなもの。新しい記憶が重なるたびに、それ以上の記憶が、その穴からどこかへ漏れていく。

 そんなわけで、古い記憶だけが、そのまま残る。より鮮明に、記憶に残る。

●37年

 ちょうど37年前の今月、私は、オーストラリアへ渡った。当時は羽田から、シドニーへ。そこから飛行機を乗り継いで、メルボルンへ。

 懸命に、そのとき覚えた感動を思い起こそうとする。が、どうもつかみどころがない。そこにあるはずなのに、そのままスーッとどこかへ逃げてしまう。あのときは、夢と希望に満ち溢れていた。すべてが金色に輝いていた。

 私は天にも昇るような気持で、飛行機に乗った。

●中部国際空港

 空港へは、2時間ほど前に着いた。ロビーは混雑していたが、手続きをすましたあとは、一変した。中は、閑散としていた。国際線の出発ロビーは、左側。目の前には、コリアン・エアーのジャンボジェットが、どこかくすんだ、水色の機体を、横たえていた。

 その向こうに、JAL機が数機。そんなとき、ふと、「国際って何だろう」と思った。「世界」でもよい。この空港にも、世界中の飛行機が集まっている。まわりを通り過ぎる人たちも、それぞれの国の言葉を話している。

 37年前とは、大きく、事情が変わった。あのころの私は、外へ飛び出すこと。それしか考えていなかった。「大学はどこにしたい」と聞かれたときも、一番、遠い、メルボルン大学を選んだ。とにかく、遠くへ行きたかった。

●友人の娘

 あさって、友人の長女が結婚式をあげる。それに招待された。しかし本当は、友人の妻の葬儀に参列するつもりだった。しかし航空券が取れなかった。友人の妻がなくなったのは、12月の終わりだった。

 メールで何度かやりとりしているとき、友人が、3月に娘が結婚するという話をした。それで3月にした。葬儀と結婚式。日本では、正反対に考えられている。こうした意識が、オーストラリアでも同じかどうかは知らないが、私が行くことで、友人の悲しみが少しでも和らげばよい。

 結婚式に出るのは、あくまでも口実? 

●メルボルン

 メルボルンは、私にとっては、とても大切な町だ。私の青春時代のすべてがそこにある。私の人生は、あのメルボルンで始まった。

 で、先に書いたタマネギの話だが、タマネギにも、いろいろな大きさがある。大きなタマネギもあれば、小さなタマネギもある。もしあのころ、あのまま、大学を卒業して商社マンか何かになっていたとしたら、私は、大きなタマネギを知らないまま、それなりの人生を送っていたかもしれない。

 私はあるとき、友人に、こんな手紙を書いた。「ここでの1日は、金沢で学生だったころの1年のように長く感ずる」と。

 決して、オーバーなことを書いたのではない。本当にそう思ったから、そう書いた。

●飛行機恐怖症

 私は飛行機恐怖症である。飛行機に乗るたびに、おかしな緊張感にとらわれる。体がカチカチになる。一度、飛行機事故を経験してから、そうなった。

 それ以後もたびたび飛行機に乗ってはいるが、旅先で、不眠症になってしまう。そのため、海外へ行くときは、睡眠薬(睡眠導入剤)は欠かせない。

 その私が、また飛行機に乗った。いやな気分だ。このままだったら、偏頭痛が始まるかもしれない。そんな雰囲気だった。私は、水を、1時間あたり、1リットルの割合で飲んだ。座席が通路側だったのが、よかった。そのつど、トイレへ足を運んだ。

 が、シンガポールのチャンギ空港に着くころからその偏頭痛が始まった。若いころは、偏頭痛で苦しんだ。

 今は、よい薬がある。

 第一段階。まずB錠Aで痛みを抑える。それで聞かなければ、C剤。それでも効かなければ、Z剤。1錠、500円(保険価格)という高価な薬である。

●チャンギ空港

 チャンギ空港(Singapore Changi Airport)は、大荒れの天気だった。一度着陸に失敗したあと、飛行機は、空港上空を、30〜40分ほど、旋回した。ときどき、稲妻の閃光が走るのが見える。機体が大きく揺れる。

 隣の若い男女は、のんきにガイドブックを読んでいる。それがおかしいほどに、不釣合いな様子に見えた。

 2、3度、積乱雲に入ったようなダウンバースト(急降下)を経験する。そのたびに、飛行機は、パワー全開にして、また機首を上に向ける。この繰りかえし。息子がいつか言った。

 「高度、x00メートルまでさがって、視程がx000メートル以下だったら、着陸は許可されない」と。

 xの部分の数字は、忘れたが、こういうときのために、こまかいルールが設定されている。

 が、ともかくも、飛行機は着陸した。私は飛行機を出ると、トランスファー(乗り継ぎ)ルームへと向かった。

●死ぬこと

 飛行機が空港の上を旋回しているときのこと。私は、ふと、死ぬことを考えた。このあたりが、私の、かなりうつ的なところ。あるいは飛行機恐怖症のせいかもしれない?

 しかしどういうわけか、こわくなかった。死ぬ覚悟はできていた。「このまま死んでも、構わない」とさえ思った。死ぬといっても、一瞬だ。脳みそに痛みが届く前に、私は気を失い、そのまま死ぬ。

 ジタバタしても、しかたない。おかしなことだが、「私はじゅうぶん、人生を楽しんだ」「これ以上、何を望むのか」と。そういう思いが、交互に頭の中をかけめぐり、死への恐怖をやわらげる。

 人には、それぞれ運命というものがある。その運命のほとんどは、私が知らないところで、私の力の及ばないところで、決まる。死も、そのひとつ。死ぬときは、死ぬ。死なないときは、死なない。そんな運命を、だれが、避けることができるだろうか。

●チャンギ空港(2)

 トランスファー・ルームをあちこち歩いて、やっと、パソコンコーナーを見つけた。無料のインターネット・コーナーはいくつかあったが、電源を用意したデスクは、一か所だけだった。運良く、ひとつだけ席があいていた。

 英語では、「Laptop Access」というらしい。そういう表示が、デスクの上に書かれていた。ナルホド!

 隣の席の男性は、シンガポール英語を話す日本人だった。ときどき携帯電話で、だれかと連絡を取りながら、パソコンのキーボードをたたいていた。

 キンキンと、語尾を短く切る英語。インド英語にも似ているが、かなりちがう。慣れないと、聞きづらい。

 先ほど、案内人に、「待ち時間が5時間もある」とこぼしたら、「シンガポール観光をしてききたら」とすすめられた。「2時間でできるから」と。私は、礼だけは言ったが、「No」と答えた。

 この雨だ。それに軽い頭痛が残っていた。まずB錠Aを試してみる。それを口の中で、かじりながらのむ。

●シンガポール

 シンガポールには、何人か友人がいる。学生時代からの友人である。しかし今回は、連絡を取らなかった。オーストラリアの友人たちにも、連絡を取らなかった。

 葬儀のかわりに結婚式に出る私が、観光旅行など、できるわけがない。私がすべきことは、静かに、友人の指示に従うことだ。何もすることがなければ、静かに、家の中で、彼の帰りを待つこと。

 しかしシンガポールが、ここまで発展するとは! 37年前に、だれが予想しただろうか。大きさで言えば、名古屋の中部国際空港の2、3倍程度といった感じだろうか。アジアのハブ空港を自負するだけあった、さすがに大きい。デスクから見たところでは、滑走路が平行して2本、走っているのがわかった。

 ハブ空港……。自転車のハブのほうに、世界中の飛行機が、ここに集まるようになっている。(それにしては、私が見ている間、それほど、頻繁に飛行機が離発着しているといったふうでもなかったが……。)

 こんな小さな国が、韓国の数倍もの、貿易黒字をたたき出している(06年)。

●私の人生

 私の人生は、前にも書いたが、オーストラリア留学時代に始まった。それが、結局は、その時代で終わる。少し前までは、「終わるような気がする」と書いたが、最近は、それが確信に変わってきた。

 あの時代が、暗闇を照らす灯台のように、それからの私の人生を、照らしてくれた。方向を示してくれた。今までも、何度か足を踏み外しそうになったことがある。が、あの時代が、再び私をもとのコースにもどしてくれた。

 私は根っからの善人ではない。悪人でもないが、少なくとも、善人ではない。もし私にあの時代がなかったとしたら、今の私は、大きく変わっていただろう。

 それに私は、歳とともに、ワイフのすばらしさが、よくわかるようになった。そんな私を、ワイフが支えてくれた。私のワイフは、私の心を写すカガミのようなもの。私の美しい面も、そして醜い面も、そのまま映しだしてくれる。

 私はそれを見て、自分を軌道修正することができた。

●日本人

 少し前、日本人のことを、「極東アジアの島国に住む原住民」と書いた。この言葉を聞いて、ムッときた人もいるかもしれない。しかし世界から見れば、それに近い。

 先日も、ワイフが、「(浜松から)東京まで、飛行機で30分!」と驚いていたが、地図で見ても、そんなもの。世界で見る世界は広いし、世界で見る日本は、小さい。これはどうしようもない事実であって、さからいようがない。

 このシンガポールから見ても、日本は、はるか北にある島国でしかない。一方、シンガポールは、インドネシアやインドとの交流も深い。東南アジアの中心部に、どっしりと自分の位置を確保している。

 すでに経済の中心は、このアジアでは、日本の東京から、このシンガポールに移動している。このことはアメリカに住んでみるとわかる。アジアのニュースは、日本のニュースも含めて、このシンガポール経由で、アメリカに流れている。東京ではない。シンガポール、だ。

●気温29度

 シンガポールの気温は、29度。空港の窓のガラスに手で触れてみたが、それほど、熱気はなかった。雨で気温がさがったのか?

 若いときは、シンガポールの異国情緒に、たまらないほどのいとおしさを覚えた。W・サマーセット・モームの小説を読んだこともある。今、その名前を思い出せない。モームは、このシンガポールにも、長期滞在している。

 そんなこともあって、ふと今、「もし、私がここに住んだら……」と考える。しかし空港というところは、一見、華やかだが、その一方で、恐ろしく孤独を感じさせる。

 私という植物の(根)が切られてしまったかのような孤独感である。たとえばこんなところで、日本の武士道を説いたら、どうなるのだろう。ニュージーランドのマオリ族がするダンスのように、思われるかもしれない。おもしろいが、それだけ。

●インド

 今度は、横にインド人の若いビジネスマンが座った。自信に満ちあふれ、マナーもよい。これも37年前には考えられなかったことだ。

 インドの経済発展は、すさまじい。やがては中国以上の経済大国になるかもしれない。もともとイギリスの植民地だったところだから、身のこなし方も、どこかイギリス風。彼らは、「紳士」の見本を見て育っている。

 で、気になるのが、6か国協議。今ごろ北京では、その6か国協議が行われているはず。あの金xxは、たったの28億円にこだわって、昨日は、会議そのものを、ボイコットしてしまった。

 今ごろは、どうなっていることやら?

 だいたいにおいて、あの金xxが、核開発を断念するはずがない。核兵器は、まさに彼の力のシンボル。本尊。核兵器あっての、K国である。今の今も、核兵器がなかったら、だれがあんな国など相手にするか? 金xxも、それをよく知っている。

●英語

 英語というのは、不思議なものだ。私のばあい、外人の顔を見たとたん、頭の中が英語モードになってしまう。

 よく地方の郷里に帰ると、その地方の方言で話すという人がいる。私も、若いころ、それを経験した。しかし同じ日本語ということもあって、40〜50歳をすぎるころからは、郷里の岐阜に帰っても、浜松弁を話すようになった。

 少し無理をすれば、岐阜弁を思い出すことはできる。が、最近では、違和感を覚えることのほうが多い。

 が、英語はちがう。一説によると、日本語は、左脳に格納されているという。一方、英語は、右脳に格納されているという。使っている脳みそそのものが、ちがう。

 そう言えば、このところ、英語を日本語に翻訳するのが苦痛になってきた。これは右脳と左脳をつなぐ、脳梁(のうりょう)の機能が衰えてきたためかもしれない。

 多分、友人のD君に会ったとたん、私の脳みそは、100%、英語モードになるはず。言葉だけではない。ジェスチャも、発想も、そしてジョークも。

●心を許す

 このことと関係があるのかもしれないが、私は、日本語で話している間は、その人に対して、心を開くことができない。

 しかし英語だと、心をそのまま開くことができる。たとえば違法駐車した人がいたとする。相手が日本人だと、こちらのほうが緊張してしまい、うまく、それを注意をすることができない。

 しかし相手が欧米人だったりすると、ごく自然な形で、つまり相手に不快感を与えないような言い方で、それを注意することができる。相手も、ニッコリ笑って、それに従ってくれる。

 これは私が留学時代、彼らの世界に、何も考えずに飛び込んでいったせいではないか。私はすべてをさらけ出し、彼らの世界の中に、飛び込んでいった。もちろん自分が日本人であることさえ忘れた。

 今、そういう意味で、私が心を開ける相手は、少ない。私のワイフのほか、数人の友人でしかない。友人というのは、オーストラリア人である。

 彼らなら、言いたいことがそのまま言える。彼らも、言いたいことをそのまま、言う。D君は、大学の教授職にありながら、私のことをいまだに、「Fuck and Bloddy Bastard」(こんちくしょう)と呼んでいる。彼にしても、ほかの世界では、めったに使わない言葉である。

●空港

 空港で見る世界は、まるで別世界だ。以前。アメリカのヒューストン空港で、こんなことを感じたことがある。「ここはまるで、スターウォーズの世界だ」と。

 その空港よりはまだよい。しかしどの人も、それなりの服装で身を飾っている。ときどき、ハッとするようなスタイルの女性を見たりする。「これが私と同じ人間か」と思うと同時に、自分の姿を横に想像して、落胆する。

 しかし空港は空港。横にいる若いインド人にしても、ここで別れたら、二度と会うことはないだろう。午後8時の便で、インドへ帰るという。昨日まで、香港で、電子部品の商談をまとめていたという。

 が、もし私が今、20代なら、すぐ名刺を交換して、何らかのビジネスに話をつなげたかもしれない。が、今は、もうその元気はない。ないというより、これから先、何ができるというのか。

●携帯電話
 
 ところで隣のインド人のところに、電話がかかってきた。それでしばらく。携帯電話の話になった。そのあと、そのインド人に聞いた話。

 日本のみなさん、驚くな!

 インド人がインドで、携帯電話を購入したとする。ごくふつうの、どこの店でも売っている携帯電話である。

 その携帯電話は、シンガポールでも、ごくふつうに使える。香港でも、台湾でも、オーストラリアでも、ごくふつうに使える。料金は、国際ルーミング・ファシリティという組織を通して、カードで、支払うそうだ。

 プリペイド(先払い)ではなく、ポウストペイド(後払い)だ、そうだ。

 彼は、言った。「日本だけは、例外。日本だけでは、使えない」と。

 こうした事実を、いったい、どれほど多くの日本人が知っているか。日本は、島国だ。いまだに鎖国している?

●ラウンジ

 空港内のラウンジで、生演奏が始まった。曲は、映画『南太平洋』から、『魅惑の宵』。ここからバリ島までは、近い。バリ島へ行く人は、一度、このチャンギ空港を経由する。

 ロマンチックな曲だ。日本で聞くのと、どこかちがう。たまたま外は、夕暮れ時。ランプは、雨でしっとりと濡れている。

 三男は、やがてすぐ、こういう空港を職場にして働くようになる。世界中を飛び回るようになる。3、4年もすれば、今の私のとは、まったくちがった国際感覚をもつようになるにちがいない。どんな感覚をもつようになるだろう。

 きっと私の知らない世界を、無数に見るにちがいない。(すでに、私の知らない世界を見ているが……。)

 ときどき三男に会って、私の知らない世界のことを聞くのが、これからの私の楽しみのひとつになるだろう。

●明日はオーストラリア

 シンガポールからメルボルンまで、私は窓側の席にすわる。「〜〜A」という席である。窓側でもよいが、水分の摂取は、ひかえめにしなければならない。だいじょうぶかな。

 朝、目がさめるころ、眼下には、真っ赤な大地が見えるはず。37年前には、それを見て驚いた。本当の驚いた。

 その感激が、もう一度、よみがえってくればいい。私は、そのとき、こう思った。「この下では、みな、英語を話している」と。

 そのときは、それがとても不思議な感じがした。

 さあ、これから簡単な食事をして、搭乗手続きをすまさねばならない。

 時刻は、午後7時20分。日本は、午後8時20分。あたりは、まだ何となく明るい。

●暗闇の世界

 飛行機は、現地時間で、午後9時に飛び立った。久々に、ジャンボジェットである。席は、ほとんど最後尾の、窓側。

 最悪だった。狭い。窮屈。隣に、オーストラリア人の若いカップルが座った。イギリスからの帰りだという。しばらく話が、はずむ。

 離陸後、窓の外をながめる。飛行機は、ジャワ島を横切って、まっすぐ下へ南下。うとうとし始めたところで、夕食が始まった。狭い。窮屈。食事のトレイを置いたら、それでひざの上はいっぱい。

 私は、窓に顔をこすりつけて、眼下の景色や、空を見た。そこには、何もさえぎるものがない、満天の星空が、広がっていた。

●白人の世界

 白人の世界では、日本で言うような、ファジーな情というものが通じない。YESと言えば、YES。NOと言えば、NO。白黒がはっきりしている。

 あいまいな言い方が、通じない。ときとして、日本人の私は、それに戸惑う。が、それに慣れれば、あとは、楽。そういう意味では、彼らは、彼らの言葉を借りるなら、インディペンデント(独立的)な民族である。

 日本人が農耕民族なら、彼らは、狩猟民族ということになる。農耕文化圏では、たがい助けあわないと生きていかれない。一方、狩猟文化圏では、荒野の中で、ひとりで生きていかねばならない。

 となりの若いカップルと話していて、ふと、それを感じた。親切な人たちで、こちらが質問すると、ケカケラと明るい笑顔を振りまきながら、あれこれ教えてくれる。が、しっかりと一線を引いている。

 もっとも白人といっても、いろいろな白人がいる。概して言えば、イギリス系は、ドライ。ドイツ系は、イギリス系よりも、どこか日本的。

●一路、南下

 飛行機は、オーストラリア大陸を横断するかと思ったが、そのまま南下。これは、気流にうまく乗るためではないか。あるいは、万が一のために、飛行場のあるところをつなぎながら、飛ぶためではないか。

 よくわからないが、地図の上では、何かしら大回りしているような感じがした。

 で、そのころなると、満天の空が、さらに輝きを増した。地平線に、薄いモヤのようなものがかかっているのさえ見えるが、その上は、まばたきもしない星の空。

 で、一度、南氷洋に出たあと、今度は、進路を、まっすぐ東に変えた。かなりの大回りだが、しかし時速130〜50キロの追い風に乗ったらしい。対地速度は、950キロを超えていた。やはり、気流に乗るために、大回りしたようだ。高度は、1万1200メートル。

●眠る?

 眠ったのか? それとも眠らなかったのか? よくわからない状態で、飛行機は、ビクトリア州に入った。町ごとの明かりが、まるで島のようにところどころ見える。広大な国である。

 まだ、暗くて、朝日に照らし出された真っ赤な大地は見えなかった。やっと朝日が見えたところで、飛行機は、着陸態勢に入った。高度をさげた。とたん、メルボルンの町並みが、見えてきた。まだ薄暗い早朝だというのに、無数の車が道路を走っていた。

 不思議と感動はなかった。もっと感動するかと思っていたが、それはなかった。静かな朝だった。それ以上に、頭の中がぼんやりとしていた。

●メルボルン空港

 通関をすませ、荷物を受け取ると、そのまま廊下へ。ゆるいスロープのついた廊下だった。この廊下だけは、この37年、変わっていなかった。

 空港全体は、大きくなっていたが……。

 大きな金属製のドアを抜けると、人垣の向こうに、D君が立っていた。細くなった。その分、背が高くなったよう思う。それをさっそく話題にすると、「糖尿病になってしまった」と教えてくれた。

●臭(にお)い

 それぞれの都市には、それぞれの臭いというものがある。それは飛行機を降りたったときだけわかる。昔、別のオーストラリア人の友人がこう言った。「羽田へ着いたとき、魚の臭いがした」と。

 メルボルンには、メルボルンの臭いがある。鉄がさびた臭いと、皮の臭い。それに乾いた土の臭い。とくに土の臭いは強烈だ。

 もっとも、この臭いは、半日もすると、消える。鼻のほうが、においに慣れてしまうため。

 「今年は水不足でたいへんだった」と、D君が言った。途中、アルバート湖という小さな湖があったが、「水位がかなりさがっている」とも。オーストラリアは、去年の終わりから、干ばつに襲われている。

●D君の家

 D君の家は、メルボルン市の中心部から、車で30〜40分ほどのところにある。カーネギーという名前の地区である。

 そのカーネギー自体が、ひとつの商圏を作っている。アメリカや日本のように、郊外に、巨大なショッピングセンターがあるというわけではないらしい。通りの商店街の通りには、かなりの人たちが、歩いていた。

 私は、近くの電気ショップで、コンセントにつけるアダプターを買った。コンセントの形状がちがうため、オーストラリアでパソコンを動かしたり、電池に充電するときは、必要である。

 値段は、500円前後。こちらでは消費税は、10%ということらしい。あとは近くの店で、お菓子類をたくさん買いこんだ。そのまま日本へのみやげにするつもり。

●落差

 この37年間、メルボルン市の中心部は、大きく変わった。しかし郊外は、そのままといったふう。そのせいか、37年前には、すばらしく立派に見えた家々が、今では、反対に、みすぼらしく見える。

 相対的に、日本の家々が、よくなったためではないか。

 当時は、1ドルが、400円。今は、100円前後。一時は、50円以下になったこともある。37年前には、スウェーデンについで、世界で、2番目にリッチな国ということになっていた。

 が、今では、通りこそ広いが、日本の家々のほうが立派に見える。快適さという点でも、日本の家々のほうが、よいのでは? どの家も大雑把(ざっぱ)。地震のない国だから、どんな作り方でも、建てられる。が、その分だけ、きめこまやかさがない。

 レンガを両側に積んで、木材を渡して、部屋をつくる。あとは屋根を作って……という感じの家。

 「日本の家のほうがいいよオ〜」と思ったところで、この話は、おしまい。

●独立心

 オーストラリアでは、個人が、独立して仕事をするケースが多い。組織に属して、サラリーマンになるというよりは、自分でする。

 車で走っていると、それらしい車と何台か、すれちがった。「掃除屋」「電気修理屋」など。

 車一台と、電話一本だけで仕事をしているらしい。あるいはインターネットだけ。日本だったら、行政が介入してきて、「管理」「管理」となるところだが、オーストラリアには、それがない。

●暑い秋

 D君が、「今日は暑い」と言った。「異常に暑い」と言った。昼をすぎるころには、シャツ一枚でも、ジワジワと汗が体中からにじみ出てきた。

 日本が3月ということは、それに6か月を足したのが、メルボルンの季節ということになる。つまり、日本で考えれば、9月の23日。

 数年前だが、日本でも9月の終わりまで、30度近い気温だったから、今は、その反対のことが、メルボルンでも起きているのかもしれない。

 しかし強い日差しだった。紫外線をそのまま感じるような日差しだった。私はあたり構わず、写真を撮った。

●日本

 当然のことながら、ここオーストラリアでは、日本の情報は、ほとんど入ってこない。念のためにD君に、「6か国協議はどうなった?」と聞いてみた。元国防省の役人だった彼でさえ、「知らない」と言った。

 今、オーストラリアには、多くの韓国人が住んでいる。通りを歩いても、ハングル文字の店が目立つ。このカーネギー地区では、日本食のレストラン(テイク・アウトの店)は、1軒だけ。

 私も、ここ2日、日本にニュースは、まったく見ていない。あとで友人に頼んで、日本のニュースを見せてもらうつもりではいる。が、このメルボルンから見るところでは、日本も韓国も、同じ。

 日本人にとって、ノルウェイも、スウェーデンも同じ。それと同じに考えてよい。

●移住

 日本人だけの単独の移住は、たいへんむずかしい。当然のことながら、オーストラリアも法治国家。生きていくことには、無数の法律が、からんでくる。それをひとつずつ理解しながら生きていくのは、たいへん。だれかの手助けがないと、不可能。

 加えてここメルボルンでは、日本人だからという甘えは許されない。ベトナムやカンボジアからの移民と、基本的には、同じ。「私は日本人」と威張っていられるのは、どこかで、日本に(根)を張っている人だけ。日本の会社名を背負ったサラリーマンとか、領事館の役人とか、そういう人たちだけ。

 病気になったら、どうする? どうなる? 老後を迎えたら、どうする? どうなる? ……そんなことを考えていくと、先がどんどんと暗くなる。

 やはりするとしても、長期滞在型の移住のほうがよい。たとえば3か月とか、長くても半年とか。移住までして、オーストラリアに住むことはない。

 仕事や生きがいがあれば、話は別だが、こんなところで、何もすることもなく、ただぼんやりと過ごしていても、意味はない。

 ……というのが、今の私の結論ということになる。つまり「移住は、やめよう」と。

●生活水準

 なにをもって、「高い」とか、「低い」とか言うのかわからないが、生活水準ということになれば、日本とオーストラリアは、それほど、ちがわない。ただ日本では、貧富の差というか、(格差)が大きい。ここ10年、その(格差)がますます大きくなったように思う。

 一方、オーストラリアでは、その(格差)をあまり感じない。ある一定以上の収入になると、突然、税率が高くなる。そういうこともあって、みな、中産階級? ざっと見ても、そんな感じがする。

 そのことを、別の知人と話題にすると、その知人は、こう話してくれた。

 「オーストラリアでは、年収が6万ドルを超えると、所得税が、44%になる」と。

 そのためメチャメチャな金持ちもいない。しかしメチャメチャな貧乏人もいない。この国は、ラッキーな国だ。資源が豊富だし、何といっても、国土が広い。同じ家にしても、全体的に見ると、日本の2倍はある。そう、何もかも、2倍といった感じ。

●スコール

 ベッドに横になっていたら、突然、電車が走り抜けるような音がした。近くに、電車線路がある。「電車かな?」と思ったが、そうではなかった。

 スコールだった。突然の大雨だった。

 すごい大雨! ゴーッと降りだしたか思うと、地面をたたきつけるかのような音。トタン板でできている屋根が多いせいか、音もすごい。

 が、10〜20分ほどで、それが終わった。空は暗くなったままだが、先ほどまでの蒸し暑さは、どこかへ消えた。

 なぜ、私がこうして家にひとりでいるか? ……D君は、娘さんと、明日の結婚式のリハーサルにでかけている。私が留守番というわけ。

●プレゼント

 こうした習慣は、アメリカだけかと思っていたが、ここオーストラリアでも、花嫁、花婿にあげるプレゼントがダブらないよう、あげるプレゼントを、デパートに代理登録しておく制度がある。

(デパートで登録番号を言えば、その人にあげるプレゼントの一覧表が出てくるしくみになっている。一覧表は、インターネットでも検索できるようになっている。)

 たとえば電気ヒーターが2つあっても、しかたない。そこでAさんが、先に、電気ヒーターを買い、先に登録しておくと、つぎに電気ヒーターをあげたいと思っているBさんは、リストを見ながら、別のものにする。

 日本ではお金をあげる習慣になっている。だったら、お金にすればよいと思うのだが……。言い忘れたが、ここオーストラリアでも、リセプション(披露宴)のとき、お金を渡す習慣があるそうだ。

 金額は、100ドル前後。日本円で、1万円くらいか。

 なおプレゼントは、結婚式の前日に、花婿の夫のほうが受け取るのだそうだ。そしてそのプレゼントは、結婚式のあとの披露宴の席で、花嫁に渡されることになっている。プレゼントは、純白の包装紙で包むのが慣わしだとか……。

●風邪気味

 どうも鼻水が抜けない。セキも出る。熱はないと思うが、その一歩手前で、グズグズしている感じ。こういうとき、外国に出ていると、何かと心細い。

 正直言って、早く、日本に帰りたい。ふと、「どうしてぼくがここにいるんだろう」と思う。片道、22時間。メルボルンは、遠い。距離的には、日本とニューヨークほどではないか。地球儀上での、直線距離にしての、話だが……。

 で、近くのレストランで、今日はダイエットも忘れて、肉類の多いチャーハンを食べた。あとは風邪薬をのんだ。

 横になったところで、またまたスコール。しかたないので、体を起こして、パソコンに向かって、文章を書くことにした。

●大学生

 近くにモナーシュ大学の分校がある。その分校に通う学生たちを見る。みな、天下を取ったような顔をして、食事をしたり、話しこんだりしている。

 私もかつてはそうだった。……と同時に、(時の流れ)を感ずる。私が学生のときには、影も形もなかった連中である。そういう連中が、いつの間にか、この世に生まれ、私たちを追いやり、そこにいる。

 「彼らはどこから来たのか?」と考えるのは、ヤボなこと。そういう私だって、どこから来たのか、わからない。わからないまま、当時は、私なりに、結構、偉そうな顔をしていた。

●D君の奥さん

 D君の奥さんが亡くなって、もう3か月になる。で、そのD君の家に来てみて、気がついたこと。

 やはり(家)というのは、奥さんがいてはじめて、光る。台所にしても、まるで学生の寮のように汚れ、乱雑になっていた。

 家具にしても、どれも、無造作にそこにあるだけといった感じ。で、私は、私のワイフがいなくなったときのことを考える。多分、私の家も、このD君の家以上に、荒れるにちがいない。

 そのD君だが、もともと静かな男だった。しかし奥さんを亡くして、すっかり自信をなくしているといったふう。声にもハリがない。自分の娘にさえ、どこか遠慮している。私には、そんな感じがした。

 世の夫たちは、妻の前で威張っているかもしれないが、それは妻がいるからこそ、できること。夫婦の価値は、それがなくなってはじめて、わかること(?)。

 ……ところで、スコールが去って、秋の虫たちが鳴き始めた。日本では聞いたことのない声である。いくつも鈴を、連続して鳴らしているかのような音。貝殻をすり合わせているかのような音にも聞こえる。

 それからもうひとつ。このオーストラリアにも、日本で見るのとまったく同じドバトがいるのには、驚いた。よく見てみたが、区別がつかない。それほど、よく似ている。

●照明器具

 電化製品の質の悪さには、驚く。近くの店の中をのぞいてみたが、どこかみな、粗悪品といった感じ。

 このオーストラリアでも、液晶テレビを売っている。日本のP社製のもあったが、その数倍の数ほど、韓国のL社製のものが並んでいた。見た感じでは、L社製のほうが美しい画像を映していた。

 「本当にP社製かな?」と思った。ひょっとしたら、中国製のニセモノかもしれない。

 一方、韓国製って、意外にがんばっているといった感じ。

 で、その電気製品だが、全体的には、日本の10年前レベルといったところか? 家具も大雑把(ざっぱ)。デリカシーを感じない。

 この部屋にも、小さな、裸電球が一個ついているが、それだけ。明るさはまあまあだが、直接見ると、目が痛い。いわゆるハロゲンランプというのか。日本でいう、蛍光灯がほとんどないのには、驚いた。

●アズ・ユー・ライク

 欧米では、客がくると、「好きにしなさい」というような、もてなし方をする。またそれが最高のもてなし方ということになっている。

 友人のD君は、離れの一軒家を貸してくれた。冷蔵庫も置いてくれた。キッチンもトイレも、そのまま使える。

 そういう(もてなし方)を知らないわけではないが、日本人の私には、どこかさみしい。先ほども、自分でミネラル・ウォターを買ってきた。こういう部屋でひとりで飲んでいると、何となくさみしい。つまらない。

 あちこちを引き回されるよりはよいが……。

 ただ私のばあいも、オーストラリアから友人が来たようなときには、「好きにしなさい」というようなもてなし方をする。相手が何かを望むまで、こちらからは口を出さない。相手が何かを頼んできたら、それには、誠心誠意、応ずる。相手がやりたいようにさせる。

●老人介護

 オーストラリアでも、老人介護のことがよく話題になるそうだ。で、私が聞くと、D君は、こう教えてくれた。

 みな、保険(インシュアランス)に入っているから、それで自分で自分の老後をみることになっている、と。

 「日本では、子どもがいるときは、親のめんどうをみるのが義務化されているが、そういうことはないのか?」と聞くと、きっぱりと、こう言った。「ない」と。

 オーストラリアでは、子どもだからといって、親のめんどうをみなければならないということは、ないようだ。

私「保険に入っていない人はどうするのか?」
D「国がめんどうをみてくれる。しかしサービスは限られたものになる」と。

●移民国家

 こうした移民国家に着てみると、民族とは何か、それがわからなくなる。日本にも、「武士道こそ、日本民族が誇るべき、精神的基盤」と説く人がいる。

 気持はわからないわけではない。しかし国際的にみると、「士」の意味すら、よくわからない。中国では、「士」を、別の意味で考えている。もともと「士」という言葉は、中国からきた言葉だから、日本が勝手に、まげて使っていることになる。

 弁護士、会計士の「士」と考えたほうが、より中国語の「士」の意味に近いのではないか。

 ともかくも、こんな国に来て、「私は日本人だ」といくらがんばっても意味はない。民族意識というのは、そういうもの。いわんや、「大和民族のほうが、朝鮮民族よりすぐれている」と叫べば、(その反対でもよいが……)、変人あつかいされるだけ。

 当のオーストラリア人たちには、そうした民族意識がない。

●日本

 このオーストラリアから見ると、日本が、小さな国に思えてくる。……思えてくるというよりは、かつてそう思った自分を思い出す。そしてそれがそのまま、今の私の印象に変わる。

 しかしやはり、小さな国だ。しかしその一方で、それが私の国。その国では、日本語が通ずる。習慣も、風習も、私に体にしみこんでいる。

 そういう国を大切にしなければならないことは、当然のこと。もし日本語が消えてなくなってしまったら、私が今まで書いてきたことは、すべて、そのままツユと消えてなくなってしまう。私が私でなくなってしまう

 何も愛国心なんて、ぎょうぎょうしいことを言わなくても、そんな(心)ならだれでも、もっている。いざとなれば、私たちは、日本人として、すべきことをする。

●3月24日

 今日は、結婚式。一生の間で、かくも緊張する日は、そうはない。結婚する当事者にとっても、また、その親たちにとっても。

 昨夜は、D君は、午後8時ごろ、床についた。私も、それを聞いて、そのあとすぐベッドに横になった。睡眠薬を、4分の1錠ほどのんだ。2錠、のむことになっているが、2錠ものんだら、気がヘンになってしまう。

 朝まで、ぐっすりと眠った。……というより、またまたあの屋根をたたきつけるような雨で目がさめた。水不足で悩むオーストラリアにとっては、まさに恵みの雨。どれだけ多くの人たちが、その音を待ち望んでいたことか。

 時計を見ると、午前4時。風呂タブに湯をはって、風呂に入る。

●部屋

 オーストラリア人の家は、どこも、大雑把(ざっぱ)。これについては、前にも書いた。壁も厚く、床もしっかりとしているが、大雑把。日本でいうような、プレハブ工法の家は、まだ少ないようだ。またそういう建て方には、なじまない。

 レンガ職人が、レンガを積み重ねて、家を建てる。そんな感じがする。

 で、掃除の仕方にもよるのだろうが、大きな家になると、どこも、ほこりまるけ。D君の家も、奥さんが亡くなって、3か月になる。掃除らしい掃除は、していないらしい。

 それに加えると、間取りがメチャメチャ。日本でいうような「型」というものがない。ただあえて言うなら、共通点としては、玄関を入ると、やや長い廊下があって、その両側に、部屋がある。一番近い部屋が居間ということになる。その奥が台所にキッチン。さらにその奥が寝室といったぐあいである。

 家の建て方は、イギリス流。しかしそこからが、問題。今朝も、髪をとかすクシをさがすため、母屋(おもや)のほうへ行ってみたが、迷路の中に入ったような気分になった。何度か来たことがある家とはいえ、右へ迷ったり、左へ迷ったり……。

●無理ができない

 自分では若いつもりでオーストラリアへ来たが、どうもそうではないようだ。

 何をしても、疲れが先に立つ。幸いにも、昨夜は、すぐ眠ることができたが、それとて、簡単なことではない。加えて、風邪が抜けない。いまだに鼻水が出る。のどが痛い。

 観光旅行なんて、とても考えられない。ホテルに寝泊りしながら、その周辺を歩き回る程度で、疲れてしまう。またそれでじゅうぶん。

 何かの目的があれば話は別だが、観光名所など、今の私には、ほとんど興味はない。

 このあたりでは、ヘアー・クリームは、理髪店で買うとか、子どもの遊び場(野外)には、コルクが敷き詰めてあるとか、そういったことのほうが、おもしろい。ふだんの、何気ない生活の中にこそ、見所がある。

 それにしても、無理ができなくなった。よく50歳をすぎて、単身赴任で、外国へ行く人がいる。が、健康管理の面だけでも、たいへんなことだと思う。それがよくわかった。

●やはりホテルのほうがよい

 せっかく招待してくれたので、それについてとやかく言うことはできない。しかし次回からは、ホテルに泊まることにする。

 ホームステイだと、いろいろ気をつかう。バスタブにしても、使いっぱなしというわけにはいかない。きれいに洗い流したあと、タオルもきちんとかけておかねばならない。使ったクシは、洗って、もとの位置に置かねばならない。……などなど。

 ベッドにしても、そうだ。こちらでは、日本でいう布団のようなものは、使わない。寒いときは、毛布を重ねて使う。その毛布を、そのたびに、たたまなくてはいけない。

 そういった作業が、結構、たいへん。めんどう。

 今さら親交を深めるということも、あまりない。会うときは会う。またその範囲で、会う。……そういう意味では、D君は、私のことを、学生時代のままの私に思っているようだ。

 往復の旅費だけで、20万円弱。それにおみやげだ、祝儀だとかで、結局は30万円近い出費。ホームステイをして、数万円の宿泊費を問題にして、それでどうなるというのか。気持ちはうれしいが、気をつかうことで、かえって、疲れがたまってしまう。

●一転、冬の冷気

 大陸の気候は、急激に変化する。しかもその変化の仕方が、はげしい。

 昔、サンパウロに行ったときのこと。朝は、寒いので、セーターが必要だった。が、昼ごろになると、今度は一転、夏の陽気。一日の間でも、寒暖の差がはげしい。

 今が、そうだ。昨日は、「異常な暑さ」だった。しかし今朝は、冬のような冷気を感ずる。これが大陸の気候の特徴。島国の日本では経験できない気候である。

 つまりその分だけ、彼らは彼らなりに、地球温暖化の問題について、敏感に反応する。30年前には、世界一、気候が温暖なところとして知られていたメルボルン市だが、ここ10〜20年で、大きく変化した。

 市内の議会前に立っている大理石の像にしてみ、酸性雨の影響らしく、見る影もなく、ボロボロになっている。

 とても悲しいことだが、この地球は、確実に病み始めている。しかも急速な勢いで、病み始めている。

●書くということ

 パソコンをあちこちにもって歩くのはたいへんなことだが、しかしそれさえあれば、こうして自由気ままに時間をつぶせるというのは、すばらしい。

 画家がスケッチをするようなものか。

 もし何もすることがなかったら、時間をどう過ごすか、それだけで、イライラしてしまうはず。しかしパソコンに向かったとたん、指がキーボードを求めて、動き出す。とたん、退屈を忘れる。

 今回は、古いパソコンだが、私が一番気に入っているのが、P社のLet's Note。今回は、それをもってきた。キーボードの感触が、よい。ストロークは浅いが、その分、疲れが少ない。

 で、こうして思いついたままを書く。ほとんど意味のない文章ばかりだが、頭の体操にはなる。それに書いていると、それまで気がつかなかったことに、気がつくことが多い。

 ただD君は、本が好き。自分では、書かない。だからいつも本を読んでいる。一方、私自身は、本は、あまり好きではない。興味のある本しか、読まない。

 これは、野球の中継を見て楽しむタイプの人と、自分でプレーをして楽しむタイプの人のちがいではないか。

●早く日本へ帰りたい

 D君には悪いが、早く、日本へ帰りたい。そばにいると、空気みたいで、その存在価値がわからないが、ワイフがそばにいるのと、そうでないのとでは、私自身の精神状態は大きくちがう。

 私が見たいというよりは、私がワイフに見せたいものが、ここには、山のようにある。「見せたいのに、見せられない」……というのは、たしかにストレスだ。波にたとえるなら、さざ波のようなストレス。それがどこへ行っても、ザワザワと襲ってくる。

 次回は、必ず、ワイフを連れてくる。ワイフも、来たがっていた。

 昨日来たばかりなのに、今朝は、こう思う。「あと、1日のがまん」と。

●ネクタイ

 ネクタイには、最後まで迷ったが、結局は、正式の(?)、黒にした。D君が、茶色の縞模様のを貸してくれたが、やはり、ここは正式の色でいこう。

 日本人は、礼に始まって、礼に終わる。……という言い方は好きではないが、せっかく日本からもってきたことだし、「黒でも悪くない」というのなら、黒でよい。

 ところで、失敗談が、いくつかある。

 オーストラリア人の家庭では、多くは、土足でもよいということになっている。それはそれで結構なことだが、そのため、床が汚い。ドロとか、そういうもので汚れるということはないにしても、ハウスダストや髪の毛、その他、もろもろのホコリがたまっている。

 大きな家になると、掃除もままならないらしい。

 で、日本から、日本型の礼服をもってきたが、これが100%、ウール。下にそれを落とすたびに、ドカッと、礼服にホコリがつく。そのたびにタオルで、拭くのだが、拭いただけでは落ちない。しばらくすると、ホコリが全体に広がっているのがわかる。

 そこで礼服を、壁にかけるのだが、オーストラリアでは、床よりも壁のほうが汚れている。床掃除をする人はいても、壁掃除する人はいない。

 しかたないので、またまたドアのサンに礼服をかける。しかしそのたびに、下へ、ドサッと落ちる。

 あああ……。

 こんな作業だけで、何十分も無駄にした。やはり、日本の家のほうが、好きだ。

●6か月ぶりの雨

 昨夜の雨は、6か月ぶりの雨だったそうだ。驚いた。「6か月!」と驚いていたら、「もっとなるかもしれない」と。

 オーストラリアの水不足は、かなり深刻なものだったようだ。

 で、朝起きると、私は近所の写真を撮りにでかけた。オーストラリアでは、ごくふつうの住宅地とみてよい。どの家にも、たくさんの木が植えられていた。しかし問題は、水。きれいな庭木がある家の前には、たいていこんな標識が門のところにつけられている。

 「うちの庭木に与える水は、リサイクルしたものです」とか。

 そうでも書かないと、近所の人たちに、にらまれるのだろう。わかる、わかる、その気持。

●標識

 道路を歩いていて、おかしな標識に出会った。カメのマークでもあるようで、カメでもない。その下には、時速20キロと書いてある。

 通りかかった人に、「あれは何のサインか」と聞くと、「先に、丘があるから」と言った。しかし丘など、どこにも見えない。

 そこで「?」な顔をしていると、道路を指差した。そこには、道路を横切って、高さ、10センチほどに、盛り土がしてある。つまり車が、スピードを落とすように、わざと盛り土をしてあった。

 速い速度だと、車が、バンプしてしまう。「いいアイデア」と感心する。

●売り家

 道路を歩いてみて、売り家が意外と多いのには、驚いた。このあたりの人たちは、収入に応じて、つまりヤドカニのように、家から家へと渡り歩く。もちろん、貧しくなれば、貧しい家に移る。

 日本でいうような「家意識」というのは、まったく、ない。昔、福沢諭吉が留学先で、「ワシントンの子孫はどうしているか?」と聞いたときのこと。アメリカ政府の高官たちは、みな「知らない」と言ったという。

 それを聞いて、福沢諭吉は、たいへん驚いたという。当時の日本の常識では、考えられないことだった。

 一方、日本では、いまだに、「家」にこだわる人が多い。人は何かの(心のより所)がないと生きていけないのかもしれない。

 となると、オーストラリア人たちは、何を、(心のより所)として生きているのかということになる。

 D君にしても、過去の話は、ほとんどしない。自分のキャリアを自慢することもない。サバサバしている。

●6か国協議

 先ほど、インターネットで、日本の「朝日ニュース」を見た。どうやら6か国協議は、休会に入ったようである。

 よかった!

 これで中国のメンツは、丸つぶれ。韓国も、援助をしにくくなるだろう。ロシアは、先に抜けてしまったようである。ひとりガッカリしているのがヒルさんらしいが、そんなことは、最初からわかっていたはず。

 金xxは、まともではない。たった28億円のことで、その数十倍もの援助をフイにしている。このあたりが、常人では理解できなところ。

 一方で、テロで脅しながら、「テロ国家指定を解除しろ」とは! しかもBDAで制裁解除しても、ほかの銀行がそれに追従するとは限らない。「やっぱり、K国は信用できない」となれば、ますます制裁の度合いを高めるだけ。

 わかっていないな?

●ワイフ

 今ごろワイフは、ひとりでさみしがっているだろうか。それとも、「鬼のいない間に……」とか何とかで、羽を伸ばしているだろうか。

 私にはわからないが、私のほうは、早く、ワイフに会いたい。何を見ても、ワイフに見せたい。そんな気持ばかりが先に立つ。

 まあ、たまには、離れ離れになるのもいいだろう。「ひょっとしたら、飛行機事故で死ぬかもしれない」とワイフに言うと、ワイフは、「生きて帰ってきてよ」と言った。

 うれしかった。

●結婚式

 結婚式は、市内近くの教会で行われた。それが午後2時半。

 それから私たちは、それぞれの車に分乗して、披露宴会場へと向かった。それが何と、車で、1時間半もかかるところにある、遠くの会場!

 1時間半というが、オーストラリアでは、高速道路(フリ−ウェイ)を使っての1時間半である。日本の感覚からすれば、2つも3つも離れた町で披露宴をするようなもの。これはアメリカでも感じたが、こうした大陸では、距離感が、日本のそれとはまったくちがうようだ。

 で、その会場というのが、中世の城を思わせるような古い建物。シェークスピアの劇がそのままできるような建物だった。

 そういう建物が、まるで映画のセットのように並んでいる。オーストラリア人にとっては、何でもない雰囲気かもしれないが、私は感動した。1時間半もかかってきたというのに、それをすっかり忘れて、私は夢中で、デジカメのシャッターを切りつづけた。

●明かり

 披露宴会場は、薄暗かった。それぞれのテーブルに、ローソクが3本ずつ。あとは周囲の壁に、4、5本ずつ。部屋を暗くして、さらに暗くしたような感じだった。

 私が周囲のオーストラリア人に、「暗くないか?」と聞くと、「暗いが……」という返事がかえってきた。しかし一向に気にする気配はない。「このほうが、落ち着いて話ができる」と。

 で、そのうち、欧米人と日本人のちがいの話になった。「私たちの目は、小さく細い」「君たちは、北欧という、もともと太陽光線の少ないところで進化した」「だから薄暗いところでも平気なのだ」と。

 彼らは日中ともなると、みな、サングラスをかける。日本人とオーストラリア人とでは、感ずるまぶしさに、ちがいがあるようだ。

●花婿

 花婿は、市内で証明器具を扱う会社を経営している。個人でしているという。こうしたケースは、オーストラリアでは珍しくない。若い人たちは、どこかの会社に属することよりも、独立して何かの事業をおこすことを望む。

 国民性のちがいというよりは、教育の仕方のちがいによる。さらに言えば、もともとオーストラリアという国は、開拓の時代から、そういう国だった。アメリカにも、西部開拓史のような歴史があったが、オーストラリアにも、あった。

 そうした精神が、今でも力強く生きている。

 が、半面、弊害もある。オーストラリアでは、大きな組織が育たない。D君は、こう言った。

 「オーストラリアのような国は、アイデア(知恵)で勝負するしかない。そのためにも、個人の競争は欠かせない」と。

 しかし雨後の竹の子のように、新しい事業が生まれ、同じ数ほどの事業が、つぎつぎとつぶれていく。これがオーストラリアの現状ではないか。

●ギリシア人街

 私がオーストラリアにはじめてきたころには、ギリシア人やイタリア人は、街の一角に集団で住んでいた。どちらかというと貧しい人たちだった。

 それが今では、すっかりサマ変わりしていた。「ギリシア人たちはどこへ行ったのか?」と聞くと、D君は、こう言った。「彼らは貧しいから、一生懸命に働いた。で、今では金持ちになった。金持ちになって、それぞれが独立して暮らすようになった」と。

 皮肉なことに、今、オーストラリアでは、もとからいた白人、これをレイジー・オーストラリア人というが、その白人が、相対的に、貧しくなりつつある。

 そのうち、中国系の移民や、インド系の移民、さらには韓国系の移民たちよりも、貧しくなるかもしれない。

●インターナショナルハウス

 メルボルン(タラマリン)空港に向かう途中、D君が、インターナショナルハウスに寄ってくれた。時間は、15分。

 私は車から飛び出すと、カメラを前にもち、あたりかまわず写真を撮り始めた。

 が、昔のようにだれでも入れるわけではない。玄関のガラス窓越しに、たまたま近くにいた女性に声をかけると、玄関を開けてくれた。

 「1970年の学生です」とだけ、自己紹介した。学生かと思ったが、その女性は、なまりのある英語で、「チューターだ」と言った。

 カレッジでは、学生と同時に、年長の講師が、チューターとして、いっしょに寝泊りすることになっている。その女性が、あちこちを案内してくれた。……といっても、案内は必要なかった。

 ただおかしなことに、私はトイレがどこにあるかを忘れてしまった。毎日使っていたはずなのに……。近くにいた女子学生に、場所を聞くと、地下室にあることがわかった。

●夢が、現実に!

 あの時代は、私にとっては、今では、夢のようなもの。本当にあの時代があったのだろうかとときどき、思う。

 しかし決して、(夢)ではなかった。インターナショナルハウスは、ちゃんと、そこにあった。何もかも、そっくりそのままの形で、そこにあった。

 それは新鮮な驚きだった。体中が、時の流れを感じ、その流れが、サーッと心を洗っていくかのように感じた。

 私は、37年前に、たしかにここにいた。そして今もここにいる。

 私はハウスで、ハウス・タイ(ハウスの紋章の入ったネクタイ)を買うつもりだったが、あいにくの日曜日。事務所は閉まっていた。

 近くにいた学生が何人か、あれこれ骨折ってくれたが、事務員がいなかった。私はていねいに礼を言うと、ハウスの外に出た。

●マルチカルチュアル

 オーストラリアは、多民族国家である。さまざまな人種が、たがいの領域を守りながら、共存している。こんなことは、今さら説明すべきようなことでもない。

 で、改めて、民族とは何か、考えてみる。わかりやすく言えば、オーストラリアには、オーストラリア人と言われるオーストラリア人は、いない。オーストラリアに住んで、オーストラリア国籍を取った人が、オーストラリア人ということになる。

 それこそ先祖をたどれば、メチャメチャ。祖父はイギリス人で、祖母はウクライナ人。父は、中国系の女性と結婚して……というようなことが、この世界では、珍しくない。

 こんな世界で、「私は、日本人」と主張しても、ほとんど、意味がない。「アジア人」と言ったほうが、彼らには、わかりやすい。実際、私は、1970年当時、そう言っていた。

 繰りかえすが、こんな世界で、へたに武士道なるものを強調すれば、変人扱いされる。どこまでも無色、透明になって、彼らの世界に溶けこむこと。こういう世界で、楽しく生きていくためには、それしかない。

●披露宴

 話が前後するが、許してほしい。

 披露宴は、メルボルン市の郊外にあるレストランで行われた。ゆるい坂をのぼった山の上に、それがあった。

 10〜15戸くらいの家やレストランが散在していた。どの家も、中世の城を思わせるような建物だった。

 しかしそこはさすが、オーストラリア人。1人の男性(60歳くらい)が、こう教えてくれた。

 「ミスター林、あの壁を見てごらん。黒い石と、白い石が、まだらに積まれているだろ。白い石は、どこかの家を解体してもってきた石なんだよ」と。

 つまり中世の城に似せてつくってはあるが、廃材を組み合わせて作った建物ということになる。しかし私を感動させるには、じゅうぶん。

●美しい女性

 美の基準が、西欧化してしまっている以上、これはどうにもし方のないことかもしれない。しかしその基準をさておいても、まるで絵から抜け出てきたような美しい人を、何人か見かけた。

 その中の1人が、レストランでメイドをしていた女性である。

 年齢は20歳前後か? 金髪というよりは、銀色の髪の毛だった。肌は透きとおるように白かった。「どうしてこんな美しい人がこんなところにいるのだろう」と、正直、そう思った。

 美しさのレベルがちがう。彫りの深い顔。知性的な目つき。細く流れるように額を走るまゆげ。見ているだけで、うっとりする。まるで絵の中から飛び出したような女性だった。

(つづく)



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